2011年9月30日金曜日

継続は力なり

夏が戻ってきたかのような陽気が続いている。
片付けてあった子供服(半袖やら夏のワンピースやら)をまた引っぱり出してくる始末。
これだからオランダの気候は…。
ヤレヤレ、と思いつつ、こんな風にいい方向に期待が裏切られるのは大歓迎。

今週は、補習校の宿題(ひらがな書き取りや言葉集めなど)を前半に済ませてあったので、
こちらも肩の荷が下りた気分で、後半はわりとのんびり過ごせた。


…とはいえ、せっかく積み重ねたもの(具体的な文字というよりも、座って取り組む習慣)を
忘れてしまってはもったいないので、放課後遊んだ後や晩ごはんの前後に、軽くなぞり書きや
音読をやっておいた。

特に音読は、日々続けていることもあり、だいぶスムーズに読めるようになってきた。
知っている単語などはスルスルッと読めているので、文字をひとつずつ追って…という段階は
とうに抜けているようだ。

読み始める前は乗り気でなく文句を言ったりすることもあるが、読んでいるうちにお話の世界
に引き込まれて笑顔になったりビックリ顔になったり…。
読み終わる頃には満足顔になっているから面白いものだ。

取り組みの続きとして食卓で椅子に座って読むこともあるが、場所を変えて、ソファのところ
でくつろぎながら、はたまた母の炊事中に台所に本を持ってきて読んでもらうこともある。
火加減を見つつ、伸ばす音「ー」や詰まる音「っ」の読み方を修正したりするわけだ。

こうして継続していると、文字を読むことに抵抗がうすれてきているということもわかる。
何気なく童謡の本やなぞなぞの本などを出してきて、声に出して「遊んで」いたりする。
それを耳にして、シメシメとほくそ笑む母だった。

動揺

こまめのクラスメートのお父さんが亡くなったという衝撃的なお知らせがまわってきた。
つい数日前にも朝の廊下でお見かけして挨拶を交わしたばかりだったので、信じがたい。
残された奥さんとふたりの娘さんのことを思うと、呆然とするしかない。
ありふれた日常の足下を突然すくわれたようなこの感覚は、3月11日以来だ。

クラス内では、当然のことながら先生がお話しして下さったり、「死」がテーマの絵本を
臨時で読みにきた専門家?がいたらしい。

帰宅したこまめがおやつの席で「○○ちゃんのお父さん、死んじゃったって!」と言うので、
遊びに来ていた仲良しのPくんにも「それで、○○ちゃんはどうしてた?」と聞いてみた。
「泣いてなかったけど、悲しそうだったよ。」「うん、元気なかったね。」
「そう。しばらく、○○ちゃんにはやさしくしてあげてね。」
「うん。何人かの子がね、絵を描いてあげたよ。」
「こまめちゃんも?」
「うん。空と、雲と、お日さまと、虹と、妖精。」
それはすてきだね、こまめ…。

なるべく動揺を見せないように、深刻すぎるムードを醸し出さないように、Pくんと一緒に
公園へ行ったり、晩ごはんの席でおどけるごまめを見て皆で笑ったりした。

食後、お絵描きのおもちゃで、何やら熱心に描いていたこまめ。
できあがったものを見せてもらったら… なんと、津波の絵だった。

うっかり落っことしてわかりにくくなってしまったが、左上が家、その右の二本のキリンの
首のようなのが大波、下は一面の海。

しかし、希望もあるようだ。
「お家のてっぺんの先っちょだけこわれて、あとは波が行っちゃっても建ってるの。」
それは良かった…!とちょっとホッとする。

しかし驚いた。なんで今更?
確かに私はあの時と同じようにうろたえていたけれど、極力普通に振る舞おうとしていた。
それでも、こまめなりに何か感じ取っていたのだろうか?
不思議なこともあるものだ。

○○ちゃん一家にとって、このご不幸は、津波のような衝撃だろう。
担任の先生によると、奥さんは気丈な方だとのことで、娘さん達もいつも通り通学している。
私の方が、朝の廊下で彼女と対面したら、涙をこらえきれなくなってしまった。
イカンイカン!

2011年9月27日火曜日

ランドセル&宿題のお披露目

先生から「持ってきて見せてよ」とリクエストがあったので、補習校の宿題やひらがな表など
の教材を学校に持って行った。
別の手提げに入れ替えるのもなんだし、どうせなら…と、いつも補習校に通うのに使っている
お古のランドセルを背負って行くことにした。

朝の日課の「みんなで輪になって座ってお話する時間」に披露したそうだ。
宿題ファイルを見せたり(なんて書いてあるの?それ全部自分でやったの?)、ランドセルを
背負って教室をくるっとひとまわりしたらしい。まるでファッションショー(笑)。

こんな形で、並列する別の学校文化を子ども達に紹介したり、二重の学校生活を送るこまめの
自尊心をいい意味で刺激して下さり、感謝している。

そのせいか?今日は宿題の取り組みにも意欲的だった。
放課後にお友達のところへ寄って遊んできた後だというのに、「言葉探し」の課題を、食事の
時間になるまで頑張った。

音読は、読み始めるまではなんだかんだブーブー文句を言っていたが、非常に面白い本だった
こともあり、次第に目も輝いてきた。
先日一緒にピクニックした友人が、引越の荷物整理で出てきたといってプレゼントしてくれた
昔の「かがくのとも」のじめん』という本
どれくらい昔か、表紙の自転車が物語っている。あったあった〜、こういう変速付きの!


四季折々の地面の様子と、子ども達がそこで自然と一体になって思う存分遊んで(=生きて)
いる様子が生き生きと伝わってくる、素晴らしい写真絵本。

汚れたり濡れたりを警戒して、こんな風に存分に遊ばせてやったことなかったなあ、と反省。
写真を見たこまめも「どろんこ…!」と目を丸くしていたくらいだもの。

2011年9月26日月曜日

即席面談

先の記事の追記である。

放課後、こまめの担任の先生とお話した。
今朝の出来事がどうも引っかかっていて、先生の意見を聞いてみたかったのと、補習校の影響
が出ていないかどうかも聞きたかったので、少し時間を割いてもらったのだ。

まず、補習校については、疲労やストレスなどの変調はまったく見受けられないとのこと。
むしろ、低学年クラスの最年長となったことがうれしく自信にも満ちているようだ、と聞いて
大いに安心した。

先生は、その影響を懸念されるどころか、むしろ積極的に知りたい、こまめがイヤでないなら
宿題など是非持参して教室で披露してもらいたい、とまで言って下さった。

このような先生なので、次の質問の答えもある程度予想できたのだが、とにかく聞いてみた。
「日蘭二カ国語で通すに当たって、母の私は徹底して日本語を使っているが、そのことを快く
思わない人もいるかも? 校内ではあまり使わない方がいいですか?」と。

先生は大反対。
むしろ、こまめとの会話で私は絶対に日本語を手放すべきではない、とキッパリ。
クラスには親の一方が非オランダ人という子が何人もいるのだが、オランダ語しか話せず、
外国の祖父母と意思疎通できない子のケースをとても残念に思っているらしい。
生徒のみならず、先生自身の身内にも(欧州内ではあるが)国際結婚したいとこがいたりする
ので、身近なこととして考えられるのだろう。

「仮にそういう(快く思わない)人がいたとしたら、ま、言うてくるでしょ」とおっしゃる
ので、「ええ、正に今朝…」と事の成り行きを説明した。

先生はちょっと面食らっていたようだった。
他人がいても親子の会話を外国語で通す人を無礼者と見なす、そういう考え方をする人のいる
可能性は否定しない。
ただ、その考えを初対面の人に向かって言い放つのは、ちょっとそれはおかしいかも…と。

件のAさんに「失礼なんはおたくですがな★」と即座にツッコめなかったことを、今更ながら
悔やんだり。「どの口が言うてんねん」とか(笑)

先生としては、特定の文化圏の保護者がワッと大勢寄り集まって周りが理解できない言葉で
井戸端会議に花を咲かせたりするのはどうかと思うし、担任と意思疎通することすら困難な
「外国語オンリー」な親はちょっとキビシいが、私がオランダ語をそこそこ不自由なく話せ
ているので、全く問題ないですよ、とのこと。

先生のような考え方がオランダの一般常識かどうかはわからない。
選挙の投票結果のように、住む地域や世代によってもちがうことだろう。
ただ、私とこまめの身近な生活圏ではこれまで通りの行動様式を変えてしまう必要はないと
わかり、ホッとしている。
価値観の似ている先生の元で過ごせて、幸運だな。ありがたやー。

小さな摩擦

今朝、こまめのクラスへ粘土工作のヘルプに行ってきた。
お手伝いの人手が足りておらず、ごまめも一緒でもいいとのことだったので、それならば…と
名乗りをあげたのだ。

教室前の廊下に机と椅子が出してあり、4人ずつ作業できるようにセットしてあった。
白と赤の2色の粘土で壁飾りをつくって、バザーで保護者に買ってもらい、今期のテーマで
あるアフリカの、恵まれない子ども達のために募金するのだという。
もう一人のお母さん(仮にAさんとしよう)と、二人一組で担当することになった。

最初のグループには、こまめと、Aさんの娘さんのA子ちゃん、そしてあと男の子が二人。
コネコネ、ペッタンペッタン…
すぐテーブルにへばりついてしまう粘土を相手に苦戦しつつも、楽しく作業していた。
全員いっぺんに説明する時や、他の3人の子に個別に話しかけるときはオランダ語で、
こまめに個人的に「こうしてごらん」と手を添える時はいつものように日本語で。

ふと、Aさんが、「オランダ語で話してくれないと」と言った。
聞き間違いかと思って、一瞬「ハ?」と固まってしまった。
「何て言ってるの?」とA子ちゃん。
「わかんないわよね、中国語なんか。失礼だわ」とお母さんであるAさん。

つまり、こまめにもオランダ語で指示しろ、と言っているのである。

そこで、「あ、すみませんね〜、ついいつものクセで☆」とかなんとか言って軽く流して
オランダ語に切り替えられたらよかったのだが、なぜだかグッと詰まってしまい、それ以降
こまめの作業が終わるまで、一言も話しかけられなくなってしまった。
何なんだろう?

通常、学校の内外で、グループ全体に話しかける時やこまめが他の子と遊んでいる時なんかは
「みんなが相手」というつもりでオランダ語で話している。
注意事項なんかは、まずこまめに日本語で言ってから他の子にもわかるようにオランダ語で
言い直すこともあるし、「そろそろ帰る仕度しないと」みたいなことは日本語で、「じゃあ
帰るね〜バイバイ」のところはオランダ語で、というふうに分けたりすることもある。
たぶん、周りのお母さん達や子ども達も文脈やシチュエーション的になんとなく見当がついて
いたんじゃないかな、と想像する。
お母さん仲間との雑談はもちろんオランダ語。
親戚の集まりなどでも同じような感じだ。
父が「今おまめは○○って言ってる」と説明役に回ってくれたりすることもあるので、日本語で
言いっぱなしのことも多い。
そんな感じでこれまで通してきた。

同席する人のために、こまめにオランダ語で話すこと自体は時には必要だと思っている。
が、今日のツッコミは、自分に取ってはなんだかとても不自然で、素直に反応することが
できなかった。これも私の意固地さゆえなのだろうか?

話していた内容は「もうちょっとこねて」とか、作業の手順のみ。
ひそひそと他の子の作品を見やったり、関係ない私語をしていたのではない。
それは、ちょっとした想像力があれば、誰が見ていてもわかったと思う。
それでも、脇でささやかれる外国語が不愉快だったのだろう。

家庭言語を公の場に出すな!というニュアンスから、移民排斥傾向のある政党が数年前に提唱
していた「公道ではオランダ語を話すこと」という法令の提案に通じるものを感じてしまった。
(幸いそんな人権や自然の理を無視したアホな法令はできとりゃしませんが)

Aさんにとっては、中国語だろうと日本語だろうとどっちだって大差ないことは明らかだ。
アラビア語やトルコ語だって同じように反応していただろう。
では、仮に私が金髪白人で英語やフランス語を話していたら?
同じように「失礼ね」と言われていただろうか?
…などと思うのは、少々深読みしすぎか。

もしかして、今まで私が周囲のオープンマインドな人達の好意に甘えていただけで、実は私が
こまめに堂々と日本語で話しかけていることを苦々しく思っている人はもっと大勢いたりする
のだろうか?…と少々不安になってきた。
母の母、つまりこまめの日本のおばあちゃんですら「なんで日本語教えるの?」とか言い出す
くらいだもんなー。

まあ、私に対して投げかけられた言葉としては、こんなのが大事件に思えるくらい平和で友好
的で恵まれた環境にいる証、と受け止めている。

ただひとつ気がかりなのは、価値観の伝達ということ。
きっと、A子ちゃんは、お母さんの反応によって、我が子に母国語で話しかける外国人=他所
の価値観を固持する失礼な人、という風に刷り込まれてしまうような気がする。
自分が移民でなかったとしても、なんだか残念だな。

こまめの仲の良いクラスメート達(ハーフの子も、そうでない子も)はみんな、こまめが親と
日本語で話すことを「そういうもん」として自然に受け止めてくれており、その柔軟で豊かな
感性に改めて感謝する次第である。

さて、皆さんは、どう思われますか?
遊びの場で、身内の団らんの場で、習い事の場で、朝の学校の廊下で、よくわからない外国語を
話す親子がいたとしたら?(或いは、親子間で方言丸出し)
その親子が、他人に対してはその国/土地の言葉で意思疎通することができているとしたら?
やっぱり疎ましく思われますか?

2011年9月24日土曜日

全力投球

朝から段取りがめちゃくちゃな一日だった。

敗因はわかっている。
お弁当用に、前の晩のうちにお米を洗ったり野菜の下ごしらえをしたりするはずだったのに、
寝かしつけしながらうっかり寝てしまったのだ。
早起きはできたのだが、朝の台所はてんやわんや、結局まともに朝食を食べることなく出掛け
る羽目になった。(父と子ども達はちゃんと座って食べていた)


穏やかな秋晴れだったので、こまめを補習校に送り届けた後、また森へ。


日本人の友達カップルと一緒にピクニックをした。


森を歩きながらのおしゃべりも楽しく、別れ際に時計を見て… ヒャッ。青くなった。
こまめの下校の時間!
大慌てで補習校に電話をする。結局20分遅れのお迎えとなった。

こまめが不安で半泣きになってないだろうか…と申し訳なさでいっぱいになっていたのだが、
幸い担任の先生がずっとついていて下さり、おしゃべりしたり絵本を見たりしていたようだ。
案外落ち着いていて良かった。
先生より、「私達がついてるから大丈夫ですよ。慌てないで下さいね。」と、まず親の私を
安心させてくれるような言葉がけ。
一目見た時から、ユーモアも温かみもあって誠実そうで、信頼できそうな先生だなあ…とは
直感していたが、それが確信に変わった。

ついでに、宿題のことなどに話が及んだ。先生曰く、
「こまめちゃんは、字を書くのにしても、本当に丁寧に一生懸命取り組みますよね。
それでどうしても時間がかかってしまう。
それだけ、ひとつひとつに全力投球しているということです。
なので、お家で宿題をするのに量が多すぎて負担に感じるようでしたら、『ここまで』と線を
引いて下さって構いません。その範囲内で、しっかり取り組んで下さればそれで良いです。
今はとにかく、苦痛にならないように、嫌いにならないように持っていってあげて下さい。」
と、こちらの目をまっすぐ見て力強くおっしゃった。

こまめの「丁寧=遅い」という持ち味は、もう変えようのない性質だ。
遅いのは困るが、丁寧であることは美徳ともいえる。まさに一枚のコインの裏表。
その性質のポジティブな面を、今まではずっと「美しい作法」のような様式美のようなものと
して捉えていたのだが、先生との対話のおかげで「全力投球」という新たな価値に気付くこと
ができた。

そうなのだ、こまめは、ひと文字ひと文字に、そして日常の小さな動作のひとつひとつに、
いちいちこれでもかと心を注いでしまうから、だから時間がかかってしまうのだ。
手を抜くことを知らない=人より時間がかかる。
そのことで苦労することもあるだろうが、この価値はもっと前向きに評価してやらないとな、
と改めて考えさせられた。先生どうもありがとう。


…そうは言っても、身支度やらトイレやらはもうちょっとお早めに、とか、
マーガリンはそんな美しくキッチリ塗らなくてもいいからさ〜、とか、
やっぱり色々思うし、つい「早くしような」って言ってしまうのだけど…★

誰に似たかって? ………母ですな。(苦笑)

2011年9月22日木曜日

水色のいちご

先週末のこと。

補習校の教材のひとつに「ひらがな表」があり、学校で習った文字のアイコンに色をぬること
になっている。
先週「い」が完了したので、そのイチゴに色をぬらせたら、水色一色でササッとぬっただけ。

てっきり実は赤く、ヘタは緑にぬるものだとばかり思い込んでいたので、「?!?!」。
「ぬり直す?」と何度か聞いてみたが、答えはノー。「変なの〜」とまで言ってしまった。

元来ぬりえもお絵描きも大好きで、描写も細かい方なのに、突然どうしたのだろう…?と腑に
落ちなかった。こういうことをやらせたら、とことんチマチマと描き込むはずなのに…。

午後になってもなんとなくずっと気になっていた。
たまたま車で遠出をする日だったので、景色を見ながらボーッとしていたら、ふと思い当たる
ことがあったので、聞いてみた。
「こまめちゃん… あの、水色のいちごな… あれなあ、もしかして…」

つまり、こうだ。
以前こまめは、学校(現地校)のワークブックでこのようなイラストが出てくる問題(数字
の分だけぬりましょう…等)を解く時、丸付けと同等の意味で色をぬればいいだけなのに、
ミニチュアぬりえと解釈してチマチマきれいに色をぬり分けたりしていた。そのせいで時間
がかかりまくり、数の概念などとっくに理解できているはずなのに、ワークブックの課題が
時間内に全部できないまま…ということがよくあった。

色ぬりを楽しみすぎて、肝心の課題のポイントを忘れて、数を多くぬりすぎてしまう有様。
先生もどうしたもんかと頭をかかえておられたので、家で「この手の問題は、細かくぬらなく
てもいいのだ」ということを教えた。
色ぬりに凝るぬりえの課題は別として、少々雑でもいいから数がわかるように単色でぬる。
そういう課題を見分けられるようになってね、と。
(その後、解答速度は劇的に改善)

「ひらがな表」の絵も、もしかしたらそのつもりでぬったのかもしれない…と思い当たって、
聞いてみたのだ。
そしたら、やっぱり、チェックのつもりでササッと適当な色でぬっていただけだという。
こまめが自分で判断した合理的な方法だったのだ。

それならそれでちっとも構わない。「習った」という印、「済」マークにすぎないのだもの。
そうだそうだ、別に「美しいひらがな表を完成させましょう」という課題ではなかったっけ…
と、こちらの思い込みをかき消された瞬間だった。

こんな単純なことも、こまめの身になって順序だてて考えないと理解できない母だった。
頭ガチガチで反省。
大人ってアホやな…と思っているかな、こまめは。

2011年9月21日水曜日

こことか宇宙とか

水曜休みはありがたい。
義務感(やらされてる感・渋々モードとも言う)の強い宿題は月・火に片付けておいたので、
今朝は「おうちならでは」なことを。

取り組み内容の順番はこまめに決めさせた。せめてそれくらいの選択権は与えようと…。

・点つなぎ(1〜80)
   80までいってゴールしたら、そのまま口頭で100まで数え続けていた。

・「い&こ」穴埋めクイズ

   宿題プリント。「い」の字のバランスが向上している。

さんすうプリモン 1ねんせいの問題より「なんばんめ(1)」

   試しに1問目を説明なしでやらせてみたら、前から4人全員を選んでしまった。
   まさにこのプリントをやってみようと思い立った、思惑通りの展開。
   オランダ語で順序を表す数字の概念(英語でいうところの first, second, third)は既に
   知っていたので、それらの言葉をそのまま当てはめて説明する。
   こういうちょっとした言い回しも意識して取り上げていかないと、聞いておぼろげに
   意味はわかったとしても、自分で使う応用の段階まではなかなかいけないだろう。

・音読『かにむかし』続き
   牛の糞や石臼など、仇討ち隊のスカウトが完了したところまで。

・読み聞かせ
 『かわ
   敬愛してやまない加古里子の、工学博士らしい科学絵本。
   山上の雪どけ水から雄大な大海に至るまでの水の旅と人々の暮らしがよくわかる。
   ラストのスケール感の大きさといったら!
   いわゆるお話の本ではないが、ある意味すごい物語、叙事詩だと思う。

 『ぼくのいまいるところ』
   同じく加古里子作。絵は北田卓史。ちょっぴりレトロSFチックでいい感じ。
   「ぼくが今いるここ」を、自宅の庭から地球上、さらに宇宙スケールで意識する話。
   この本だけでも十分面白いが、実は次に見せる動画の伏線なのだ。

・動画『Powers of Ten
   上記の絵本のような内容をシームレスに展開した驚異の映像。
   遠く宇宙の果てまでいったら、キューンと引き返して来て、今度は手の甲から細胞内の
   ミクロの旅へ…。
   1968年、チャールズ&レイ・イームズ(建築家・デザイナー・映像作家)の作。


これこれ、こういうことがしたいんだよ、こまめと一緒に、私は。
受験勉強みたいに文字や語彙の訓練に明け暮れるんじゃなくて、情報や知識の押し売りでも
なくて、この世界のいろんな感触を、多様な切り口から感動と共に分かち合いたいんだ。
一緒にワクワクしたいんだー。

週に1回、いや、月に1回でもいいから、「こりゃ楽しんでるな」という手応えの伝わって
くるような取り組みができたら本望だわい。

2011年9月20日火曜日

父のケーキ

夜更けに父が台所で何やらガタガタやっていた。
なんじゃいな、と思っていたら…
翌朝、こんなものが:

レモン風味のレアチーズケーキ。トッピングはボンママンのブルーベリージャム。
おやつにおいしくいただきました。

レアチーズだって手づかみじゃ! わしわし

年に2、3回くるのだ、謎の「お父ちゃんのお菓子作りブーム」が。
別に趣味とかいうわけじゃない。ふっとやりたくなると、ネットでレシピを検索してくる。
パンなど焼いたりすることもある。でも、台風なみに一過性…。


今日の取り組み内容は、昨日と似たりよったり。
・朝の暗唱
 「何着ても うつくしうなる 月見哉』

・「こ」書き取り練習

・「も」のつく言葉集め
   ちょっと難しかったようなので、『ことば絵じてん』の助けを借りつつ。
   絵は自力で。

・音読『かにむかし』続き
   クリが仇討ち隊の仲間に加わるところまで。先は長いぞ〜。

2011年9月19日月曜日

月夜のおしゃれ

今週も引き続きお月見の句を暗唱。
 「何着ても うつくしうなる 月見哉」(加賀千代女)

それはそれはきれいなお月さんの光の下では、お姉さんもおばちゃんもおっちゃんも子どもも、
ステキな服着たおしゃれさんもそうでない人も、みんなきれいに見えるんやろね〜!と言うと、
ケラケラ笑っていた。本人は「おしゃれさん」のつもり。

明日はこの画を見せてみよう。

歌川国輝の「江戸名所 高輪の月見」。1847年作なので、今から164年前のおしゃれさん達!


放課後は、校庭で少し遊んだ後、クラスメートの家に遊びに行ってしまった。
その間に晩ごはんの仕度をしておいて、早めに(といっても5時過ぎだったが)迎えに行き、
父が帰宅して揃って晩ごはんを食べ始めるまでの時間に宿題をやる。

行き当たりばったりにプリントを渡していては、やる気がそげることもあるかもしれない…と
思い、1日当たりの量が多すぎないように、しかしちゃんと期限内に終わるように、圧迫感の
ない順序で…と念入りに取り組み計画を練っておいた。

・「い」書き取り練習
   右方向に傾いた字形に苦労していた。留め・ハネもある。硬筆で正しく丁寧に書くのは
   なかなか骨が折れるようだ。
   
・「し」のつく言葉集め
   絵はシマウマとシャボン玉のみ。それでも30分近くかかった。


・音読『かにむかし』続き
   サルの投げた青柿に当たってカニがぺっしゃんこになり、子ガニがわんさか生まれる
   ところまで。

2011年9月17日土曜日

内なる欲求と外の世界の要求

雨模様の土曜日。
ごまめが風邪をひいたようだったので、補習校の送迎ついでの散策は今日はナシにして、
父とごまめでお留守番。

珍しくこまめとふたりっきりの車中、ごまめがいないので落ち着いて雑談しながら行く。
普段の登校時に考えるのは『Buurman en Buurman』(チェコアニメ『パットとマット』)
ことと、亡くなったオランダのおばあちゃんのことなの、と突然打ち明けてくれた。
脱力系お笑いアニメ&天国のおばあちゃん(実際に会った記憶はない)…という組み合わせ
なんともカオスでよろしい。

しりとりもした。
母「まど」 こまめ「…どろぶね!」
渋いですなあ。

泥舟<カチカチ山しかり、日本の昔話が好きなこまめ。
古典だけあって、ストーリーがしっかりしているからかな?読み聞かせでもよくリクエスト
してくる。最近のお気に入りは『したきりすずめ』に『かにむかし』。
恩返しとか、仇討ちとか、因果応報な展開に惹き付けられるのかもしれない。
「打出の小槌」みたいなスーパーアイテムも夢があるしね。

冷たい雨の降る日の軽い昼食は、森のはずれの喫茶店で、オニオングラタンスープ。


ところで、こまめ曰く、
プリクラスの子全員が(!)宿題がちょっと重荷で、何かしら身体の不調(具体的には頭痛や
肩こりなど)を訴えているそうな。ホンマかいな?!

こまめも宿題に取り組むのはあまり乗り気ではないようだ。
座ってひらがなのお稽古をする習慣は既にできていたので、それと何がちがうのかなー?と
考えてみた。
おそらく、あの問答無用の強制感が受け入れがたいのだろうな。

母としてもその気持ちはわかる。
これまでは、母も「一緒に取り組む」つもりで、何かしら教材を作ったり、少なくとも無料の
教材をダウンロードしてプリントアウトする程度の手間はかけていた。
あるタイプの教材をやりたくない日は、別のタイプの取り組みをする、という柔軟な対応も
できた。
ところが今は「学校でこれをやれっていうことになってるから、やろうね」だ。
それではいまひとつ説得力に欠ける。
「なんでやらなあかんの?」と聞かれても、自分の用意したものでないだけに、母自身が納得
のできる答えを持っているわけではない。

自分が主導権を握ってないことに多大なエネルギーを注がないといけないというのはたしかに
苦痛だろう。
こまめの通う現地校(モンテッソーリ小学校)では「自分で選び、自力で遂行する」ことに
重きが置かれているので、その差は尚更だ。

文字の習得なんて、あくまでもツールなんだから、受験勉強同様しのごのいわずにとにかく
やってしまうにこしたことはない…という見方もあるかもしれない。
これまでの取り組みが母のお仕着せでなかったとも言い切れない。
「5歳の子には荷が重いんじゃないの〜?」という父の意見もチクッとささる。

こまめは、そして私はどこをめざしているのか?
自分達のペースで学ぶことと、集団生活で得られるものを計りにかけるような気持ち。

実際のところ、学校生活そのものは楽しんでいて、日本社会という点でもかなりインスパイア
されているようで、最近「日本に行きたい」「早く行きたい」「次のお休みには行ける?」と
繰り返し言うようになった。
かわゆいやつめ…と、そのことに目を細める反面、そうなったらなったで今度はオランダ社会
にもしっかり根付いてもらいたい…と天の邪鬼のような欲張りな気持ちが生まれてくる。
まったく勝手なものだな、親心というのは。

いろいろひっくるめて、この葛藤を大事にしなければ、と思う。
近道も正解もないだろうから。

2011年9月16日金曜日

キノコの森

「アムステルダムの森」を歩いた時に見つけたキノコ達。


森の入り口の、たった一本の倒木の周囲に…

…こんなにいろんな種類のキノコが!

ごまめの小さな手よりもっと小さい、赤ちゃんキノコのツブツブ。

ちなみに、オランダ語でキノコ・菌類を表す言葉には「champignon」「paddestoel」「zwam」
がある。
「champignon」は、おなじみの食用マッシュルーム。白いのと茶色いのが一般的。
それ以外のキノコは「paddenstoel」。直訳すると「蛙の椅子」…!
「zwam」は平べったい種類を指すことが多いような気がする。とんがり帽子みたいな種類も
あるけど。

森のあちこちで、苔と仲良く繁殖中。
キノコを探して歩くのは、海岸できれいな石や貝殻を探しながら歩くのに似ているなあ。

2011年9月15日木曜日

上を向いて歩こう

こまめにとっての新曲、『上を向いて歩こう』。
補習校の学習発表会の課題曲だとかで、全校朝礼で歌う練習をしているようだ。
2回ほど練習しただけだが、えらく気に入ってしまったようで、家でも歌詞プリントを見ながら
何度もくりかえし歌っている。

そんなわけで、歌詞クイズをやってみた。
穴埋めはバッチリ正解!…だったのだが、書く方がまだ追いついていない。

鏡文字連発…。どうしてそうなっちゃうんだろう、面白いなあ。
左利きであることと関係あるのかな?
面白いから、消さずに残しておいて正しい文字をなぞることにした。
2つめの「う」は直されちゃったけど。

2011年9月13日火曜日

十六夜

前日のお月見を振り返りつつ、今週の句の書き取り。
「十五夜や すすきかざして 童達」(村上鬼城)

「なんで(句には登場しないのに)おだんご〜?」とこまめ。
まーこまかいことはええやないですか、というと「ダメ〜!」と。
来年は一緒に作ろうなあ。

他には音読、言葉集めなど。

てくてく歩きとタクシー

補習校に通い始めて以来、学校から出される宿題に取り組んでいる。
1週目は、運筆練習のみで、楽勝。
2週目は、名前の練習と、ひらがな2文字分の言葉集め、会話練習。
3週目は、名前の練習、ひらがな2文字の書き取り練習各2枚、別の2文字の言葉集め、
そして会話練習…と、だんだん増えて来た。これに加えて、読書(読み聞かせでも音読でも)
がある。

1枚1枚の量はたいしたことないので、毎日少しずつやっていれば必ず終わる。
しかし、1〜2日でまとめてやってしまうには量が多すぎるので、どのみちちょっとずつやる
ことになる。個人的にも、1日で全部やってしまって後の日は遊び倒すよりも、日々の習慣と
してコツコツやる方が、新しく習うこともより定着しそうに思う。

そうなってくると、悩ましいのが、家庭で独自にやってきた種々の取り組みとの兼ね合い。
最終目標を「日本語習得」に絞るのなら、補習校の用意してくれるものをひたすらこなすこと
で十分な気もする。…が、それではなんだか物足りない気がするのだ。

これまでに家庭でやってきたようなこと、例えば:
俳句を通して季節感を知ること、
カルタ、童謡、遊び、その他さまざまな切り口から言葉と文化の両方に触れて行くこと、
科学的・算数的なアプローチ、
工作や裁縫・料理など手を使って学ぶこと、
…などなど、一緒にやってみたいことがまだまだいろいろとあるのに、宿題に時間を取られて
しまって、雑多なことに挑戦しにくくなってしまった。

これは、補習校に行かせる前、入学を検討していた時から懸念していたこと。
学校中心の生活になるということは、学校以外のことがあまりできなくなるということ。

学校という集団生活の中、先生や友達のいる環境で得られるものは、家庭で与えられるものと
はまったく別のものだ。
それなりに高い学費を払って、用意してもらったカリキュラムに沿った課題をこなしながら
学習していくのは、タクシーで移動するようなものだと思う。
与えられた宿題をきちんとこなしていたら、ある程度の目的地には到達できるにちがいない。

これまでは、散歩のような学習だった。
親が素人なりの知恵をしぼって考えた行き当たりばったりのカリキュラム、手作りの教材。
そんなてくてく歩くようなペースの学習にはしかし、道草の楽しみがあった。
ひとつのトピックからどんどん話を広げて行くこともできたし、今日はお休みしちゃっても
いいか…と肩の力の抜ける日もあった。

今後はそのようなのんびりペースではやっていけないだろう。
まずは出された課題をきちんとやれるように指導することが、親の使命となった。
その上で、学ぶ楽しみを分かち合えるような、家でしかできないようなことも時々は織り交ぜ
たいものだと思う。どこまでできるかな?

幸い現地校の宿題はないので、補習校の宿題をこなすペースが上がって来たらもうちょっと
楽しげなこともいろいろと…と思いつつ、こちらの思惑など露知らず、勝手に友達と遊ぶ約束
を取り付けてくることも多くなってきた。
ヤレヤレ、こうやって飛ぶように小学生時代が過ぎるのだろうなあ。

2011年9月12日月曜日

十五夜 お月さん

一日中強風で雨のぱらつくひどいお天気だったが、日暮れ頃になってスッと晴れた。
おかげで、就寝前にこまめの部屋の窓からギリギリの角度で、澄んだ空に浮かぶ満月を見る
ことができた。

放課後におだんごを一緒に作りたかったのに、友達と遊びたいと泣かれてしまい、仕方なく
譲歩する羽目になった。朝から予告していなかったし、お月見のお祝いがどういったものか、
まだ記憶に十分刷り込まれていたわけではないので、仕方がない…。
帰宅して、ススキの飾りを見るやいなや「キレイ〜!」と反応してはいたが。



オランダではススキは観賞用として植えられているだけで、少なくとも私達の住む地域では
雑草化はしていない。葦はそこら中で見かけるのだが。
学校近くの駐車場の株がかなり大きくて穂も沢山出ていたので、コッソリ分けていただいた。
これも花泥棒になるかしら…?(ドキドキ)

2011年9月10日土曜日

忘れ物、火事場の箸、ヤギカフェ

補習校の授業2回目にして、初めての忘れ物をやらかしてしまった。
家を出る前に、持ちものチェックの表を見ながら点検することになっているのだが…
「じぶんでできたよ!」と意気揚々・誇らしげに言うので、うっかり信用してしまったのだ。
道中、車の中で何気なくランドセルの中身を見てみて、「あ……」と。

忘れたのは読書カード。
読み聞かせや音読をした本を記録しておいて、それを先生に確認してもらう、というもので、
授業で使う宿題とかお弁当などの「これがなくては話になりまへん」というような大事なもの
ではなかったのがまあ救い。

チェック表を手によくよく確かめてみると…
「どくしょカード?はいってるとおもうよ」(思ってるだけではダメなのれす〜★)とか、
「れんらくちょう?それなに?」(物の正体も知らずにどうやって確認するっちゅんじゃ〜★)
とか、あの溌剌とした返事とは裏腹の、実体のないチェックだったことが判明。
やはり親の最終点検がまだまだ必要、と痛感した次第。

授業は楽しかったようだ。
休み時間には避難訓練もしたという。
注意事項などを思い出しながら話してくれたのだが、「走らない、押さない」「上靴のまま
運動場へ」などのルールに混じって「おはしは必ず持って」という謎な一項が。
「いっつも、おはし、もっていかなあかんのよ!」…って、それどんな避難?
不思議な光景ですなあ。

あ、ひょっとして…
直前のお昼ごはんの時の「お弁当は、スプーンやフォークでなしに、おはしで食べましょうね」
という話とごっちゃになったのかな??


授業の間、我々はというと…
またしても暖かくいいお天気だったので、再び「アムステルダムの森(ボス公園)」へ。
先週とは別のゾーンを散策した。
森のいい匂い!


昼食の後、父も母もハチに刺される。
父は二の腕を1カ所、母は脇の下を2カ所も!
痛かったなあ…。大人なので(!)泣かなかったけどね。
刺されたのがごまめでなくて本当に良かった。


広大な森林公園の一角には、ヤギ牧場がある。

こんなのがわんさかいるところのカフェで一服したら…

なんと、カフェオレのミルクが山羊乳だった!
一口飲んですぐわかった。実は、山羊乳が苦手なもので…。
頑張ってみようと何口かトライしたが、さっぱりダメ。完敗。おいしない!

そういえば、オランダにはラクダ牧場が1カ所あるそうな。
牛乳アレルギーの人向けにラクダ乳という選択肢もあるということらしいけど、どんな風味
なんだろう…? ケモノ臭い食べものが苦手なので、敢えて挑戦しようとも思わないけれど。

2011年9月9日金曜日

ラ め

夕方から、父の職場のバーベキュー会。
手みやげに冷凍の枝豆を持って行こうと思い、市内のアジアンショップへ。
そこで見つけた品。

おしい! 8割5分ぐらい合ってるかな。
VOWやなあ…

2011年9月8日木曜日

流感と刺繍

秋到来。
ビショビショと雨風吹きすさぶ、これがオランダ式。秋晴れ?何それ?てなもんで。

そんな季節につきものの、何やらのウイルスにやられてしまった。悪寒、発熱、節々の痛み。
家族の中で私だけかかるなんて珍しい!いつもなら、皆が順々にやられいく中、最後の砦として
ふんばっているのに…。(病原菌に対して鈍感なだけ、という説も…★)

そんなわけで、ここ2〜3日あまりまともに機能していなかった。
こまめとの取り組みも「これやっといて」と渡しておいて、母は横になっている…という有様。
そんな中で仕上げた「くのつく言葉」。

絵を描くところまでは一昨日やっていた。昨日色をぬって仕上げた。


今日はもういいかと思ってたまった家事をやっつけにかかったら、どうやら動きすぎだった
ようで、夕方になって目眩がしてきた。
昼寝の追加が必要なごまめと一緒に、ちょっくら横になるか…と思ったら、「刺繍やりたい〜」
とこまめが言い出した。
「一緒に座って見ててあげられへんよ」と念を押しても「大丈夫」と言うので、刺繍の輪っか
を取り付けた端切れ布と、針に通して玉結びをした刺繍糸を渡しておいて、寝床へ向かう。
学校で、穴のあいた厚紙に毛糸でやる刺繍のお仕事をやっていたのは知っていたが、無地の布
にやるのは初めて。まあできなかったらそれでもいいや、と放っておいた。

で、しばらくして出来上がったのがコレ。

ハートちゃんとチューリップ。
初めてのくせに(そして図案の下描きなしなのに)、おぬし、なかなかやるな!

2011年9月5日月曜日

いよいよ新年度

待ちに待った新学期がやってきた。
クラス替えはなし。中学年クラスに上がって行った子を除けばクラスメートも変わらない。
これまでと同じ低学年クラスの中で一番お姉さんという位置づけになった。
担任の先生も同じなので、安心感がある。

久しぶりに会うこまめのクラスメートを見るにつけ、みんな随分大きくなったなあと思う。
いつも一緒にいるから気付いていないだけで、こまめも夏の間に少しは成長したのかな?


学校での授業のテーマは「アフリカ」だそうだが、家では来週の「お月見」のことを。
子ども百科の「月」の項を見たりする。

・暗唱「名月をとってくれろと泣く子かな」(小林一茶)
   幼児にもとてもイメージしやすい句で、身近にごまめという標本もあるせいか(笑)、
   思わず笑みがこぼれる。

・書き取り/なぞり書き
   上記の句を。


・読み聞かせ『14ひきのおつきみ

・補習校の宿題:「へ」のつく言葉探し

   パッと出てきたのは「へび」だけだったので、過去の「ひらがなワーク」ファイルや
   『ことば絵じてん』などをヒントにしながら。
   これを全部やりきったら、すてきな自作のひらがな辞典ができるなあ!