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2016年4月8日金曜日

おうちでにほんご 2.0

皆様ご無沙汰しております。
こまめ10歳・ごまめ6歳、元気にやっております。


さてさて、昨今のおまめ家ですが、
自宅でちいさなちいさな日本語教室を開くようになりました。
ごまめのクラスの子に乞われ、早や2ヵ月。その様子はといいますと…


* * * * *

生徒は、8歳になったばかりの男の子がひとり。
両親共にオランダ人で、これまで、テレビなどで時たま流れる英語のフレーズを除いては、
よその言語に触れたことはない。
「漫画やアニメが好き」というような、今時のサブカルファンの青少年にありがちな動機も
まったくなく、単純に「知らない言葉を習ってみたいから」とのこと。

なんと奇特な!!!

その好奇心と心意気に打たれ、週に一回、放課後に、小一時間の授業を持つことになった。


* * * * *

文字も単語も全く未知の子に教えるわけだから、(微々たるものとはいえ)赤ちゃんの頃から
蓄積のあるこまめごまめとはやはり勝手がちがう。
大人に教えるようにロジック(文法)で型を納得させてバリエーションを展開する、という
手法もあまり適していない。
外国人対象の日本語教育に関してはまったくの素人である自分だが、とにかく手探りながらも
始めてみることにした。


* * * * *

教え始めるに当たって、まず最初の疑問は
「何を教えよう?」
ということだった。

日本に観光旅行に行く予定があるわけでもなく、検定試験などの目標があるわけでもない。
8歳のYくんにとって学ぶべきこと、彼の世界が広がるきっかけになることって何だろう?

結論: やっぱり…「友達」だよな。

人と人との気持ちの架け橋となる言葉。
日本の人と友達になるには、どんな会話が必要だろう?
友達ができたら、何を話したい?

Yくんの立場になって思案してみると、段々見えてきた。
そこを到達目標にすることに決めたら、あとは授業時間に合わせてコマ割りしていくだけ。


* * * * *

まずは、人と人をつなぐ基本中の基本「あいさつ」から。
その中でも、特に「こんにちは」と「ありがとう」を必須とした。

それから、「自分のことを紹介する」。
「ぼくはYです」「ぼくはオランダ人です」などが言えると、初対面での会話のきっかけになる。

2ヵ月経った今では、授業のない日にも校庭などで顔を合わせると「こんにちは」と返って
くるようになった。ちょこっとお辞儀もついてくるあたり、なんとも微笑ましい。
ジェスチャーのコピーがさりげなくうまくいってる様子で、シメシメである。


* * * * *

さて、耳慣れない言葉を教科書もなしに音だけで説明するには限界がある。
そこで思いついたのが「ことばカード」。

短冊状の紙の左半分に日本語のことば、右側にそのローマ字表記。
裏返すと本人がメモった蘭訳が書いてあるので、一度に覚えられなくても大丈夫。






直観的に作った教材だったが、この形式でやると、オランダ語/ローマ字の横書きと日本語の
縦書きが無理なく並立するし、文章の組み立てや品詞も非常にわかりやすい。
頭の中でやっていることを、目に見える形に分解再提示したわけだ。

2ヵ月で、この程度の構文がわかるようになってきた:



毎週少しずつ増えて行く単語は、「ことば」と書いた封筒に貯めていく。
この封筒が、まさにYくんの「語彙」なのだ。
語彙が膨らむと表現の幅もどんどん広がる…ということを視覚と触覚で直観的に体感できる。
この魅力は、Yくんにとってもお馴染みの、モンテッソーリの教具に通じる。

もちろん、単語の意味はそうあっさりとは定着しない。
が、とにかく触れることが大事と、圧倒されない程度の数(毎回数語)の新単語を使っている。


* * * * *

文字の習得は今の段階では求めていない。
日本語独特の発音に慣れるため、しばらくの間、授業のはじめにかな表を声に出して読むと
いうことを続けてみたのだが、それが「母音と子音の組み合わせチャートである」ということを
一瞬で理解したYくん、探す文字がどこらへんにあるかもすぐに見当がつけられていた。
こういう勘こそが語学習得には大きなアドバンテージだよなあ…と感心。

縦書きという特殊な形式に慣れるために、例文なぞり書きの時間は取ってあるが、家で復習することも強制していない。
ローマ字かなを小さく振ったかなカナ表を渡してあるので、いつか学んでみる気になったなら、
素材は手元にある…という状態に留めてある。

じゃんけんや折り紙などの遊び要素も欠かせない。

諸々の解説や合間合間のおしゃべりは、今のところオランダ語。
日本語を聞いたり話したりする時間をできるだけ増やしていきたいので、徐々にシフトして
いきたいところ。

さしあたって、夏休みまでをひとつの「続ける目標」にしてある。
長期休暇の後もまだ面白いと思ってくれるのだったら、喜んで続きを教えたい。

授業の計画を練るのもまた楽しからずや… ♪


2015年5月23日土曜日

一人から大勢へ

一つの〇〇シリーズの授業、第三弾。
今回は「一人から大勢へ」と題した、マスコミュニケーションの話。
教科書を使ういつもの先生がお休みで、代打の先生の提案でニュース作りに挑戦してみることに
なった。それとからめた内容。

まずは、「ニュースって何?何がニュースになりうるの?」ということを、スライドを見ながら
一緒に考えてみる試み。



「知らせたいこと」と「知らせる形(メディア)」の組み合わせを逐一見比べられるように、
短冊にメディアの形態を書いて、それとなく種別に分けてノーパソ周りに配置。


ポイントは、「知っている人向け=相手の顔がわかるか? 知らない人大勢向けか?」。

「ニュースになりうる出来事」の題材には、身近な「赤ちゃんの誕生」を扱った。

・一般家庭/王室

・普通種/突然変異種

・家畜/動物園の希少種

各お知らせを、どのメディアで伝えようか?…と、短冊と見比べていく。
すると、
 ・「ありふれていること」と「めったにないこと」
 ・「大勢の人が知りたがっている=動向を気にしていること」と「個人的な重大事件」
これらの違いがなんとなくわかってきた。

そんな中、一般家庭の赤ちゃんや普通の子猫の誕生をマスメディアで大々的に伝達するのは
「おおげさ。」と言い切った子がいた。
その感覚を意識できたというだけで大収穫。

伝えたい内容に対して何が適したメディアかというのは、ソーシャルメディアの発達で随分と
境界が曖昧になっているので、正解はこうだ!というのがもはや通用しなくなっているが、
メディアの担うべき役割を吟味したり疑ってかかったりするには、とても大事な気付きと思う。
少なくともベースになる感覚があってこそ、賢く利用したり、また、従来の垣根を壊す意味も
あるというもの。

本当は、この話を下敷きにして理解を深めてからニュース原稿を作成する、という段階を
踏めれば理想的だったのだが、スケジュールの都合上、とにかく試行錯誤で書き上げてきた
ものを読み上げてもらった。

たった4人のグループなのに、見事に形式や内容が分かれた。
そこで、既存のニュースらしく順番を組んでみた。
(トップニュース → 行楽ニュース → 災害ルポルタージュ → お天気ニュース)

リハーサル後、いざ撮影。YouTubeにアップロードするところまでをやってみた。







どうです?
初回にしてはまずまずの出来ではないですか? ^^
(ショボカメラで撮ったので、音響の不揃いには目をというか耳をつぶって下さい…)

原稿の準備にかなり苦労した子もいたようだけれど、そこを母子の協力で何とか乗り越えれば、
このような「感覚に直にせまってくるフィードバック」が得られるんだ、と、体験を通して
理解してくれただろうか。それが今後への励みになってくれることを願うばかり。

「言葉と格闘しつつ書く→クラスで発表する」の、その先を体感する新しい試み。
結局、「何が知りたいか」&「何を伝えたいか」に尽きるんだよなあ。

元放送部の J先生の提案がなかったら思いつかなかったこの課題。
いやはや、勉強になりました。

2015年4月18日土曜日

看板を作ろう

2時間目の国語の授業(担当は主担任のM先生)と10分休憩をはさんで、3時間目。

まずはリサーチの宿題(どんな看板があるか見てみよう)を広げて、観察&分析。


ロゴ中心の看板と、メニュー・値段・道順など、お知らせ中心の看板に分けてみた。
何をどうやったら伝えたいことがちゃんと伝わるかな?ということを、漠然と理解
してもらう。

その上でやっと、作業に入る。
学習会の会場の玄関ドアに掛ける看板のデザインを考案する課題。
いざ、アイデアスケッチに突入!
学習グループ(とその母体である読み聞かせ&遊びのサークル)の名前を入れて、
どうデザインするかな?


この後、自分は午後の習字教室の準備のため退室。
下描きの仕上げと、その中から佳作1点を採用するところまでを他のお母さん達に託した。

…すると、みんな、自分の作品が一番!ということで投票が成立しなかった、と。

それもそのはず、


こんな素敵な力作ぞろいだものなあ。

そこで、「1点選んで拡大する」という当初の案を変更。
全員の作品を採用→毎回順番に掛ける、ということにした。めでたしめでたし。

一冊のノート

土曜日の学習グループ。
まずは朝の挨拶から。


「おはようございます」はもうずっとやっててお馴染みだが、「よろしくお願いします」は
新しく導入。
空手や合気道などの武道を習っている子は「あっ、知ってる」。
そうなのだ、この挨拶、学校ではあまり使わないが、道場的な師弟の挨拶では基本中の基本。
自分の授業の場合、師弟の立場が逆転することも大いにありうるので、お互いに「よろしく
お願いします」という心づもり。


さて、初回の「一本の鉛筆」に引き続き、今回は「一冊のノート」というタイトルの授業。

まずは、日蘭のノートの実物を比較。
どこがちがうかな?
罫線がちがう… 綴じ方もちがう!
(日本のものは糸で、オランダのはホチキスでバチンバチンと綴じてある)

じゃあ、ノートがどうやってできるか見てみよう。


前半の約8分半を、字幕の部分を私が読んで解説しながら、かつ実物を横で確認しつつ、鑑賞。
いや〜、工場のラインって、本っっ当に面白いですね。


次に、ノートの語源について。
なんでカタカナで書くのかな? 


…外国からきたから!
じゃあ、日本や中国にはノートみたいな物ってなかったのかな?

ノートに関係ある言葉を並べてみる。


さて、問題。どの字がノートを表すんだろうか?

「面」という字がノートっぽい、と言ったKくん。うん、なんか似てるよね。
「仮面ライダーの面だ!」と気付いたLくん。なるほどー、そうくるか!

ここで授業はおしまい、と思ったら、みんな自主的にノートに書き取りはじめた。
ほほう、良い傾向。何でも書いておくのがノートだからね。


見なれたノートの生産過程には思ったよりたくさんの手間がかかっていること。
また、ビデオには映っていなかったけれど、できたノートをトラックでお店まで運ぶ人、
お店でノートを並べて売る人、そのノートを買ってくれたお母さん、買ったノートを
オランダに持って帰るための飛行機関係の人、学習グループの教室を貸してくれている人、
などなど、今日、ノートに字を書くまでには、たくさんの人の手が関わったのだよね。
…ということに思いをめぐらしてもらいたくて、授業後のおたよりにそうしたためた。


おまけ:
ラジオ体操の前に、昨日摘んだつくしを披露。


寄ってくるたかってくる ^^
やっぱり、触れられる生の情報って良いもんだ。

2015年4月5日日曜日

先生からのおたより

授業の翌日。
3年生の5人に、おたよりをメール添付で配布してみた。


教科書でもなく、親のメモでもなく、親戚からのお手紙でもない、こういうものを読むと
いうのもよかろう…と、課題のアフターケアや宿題のチェックリストと合わせて作成。

さっそくプリントアウトして、外から帰ったこまめに「お手紙来てるよ〜」と手渡した。

こまめ「○○先生… だ、誰?」(←漢字を読めていない。母だっつーの。)
「あ!△△先生かな?」(←体験入学した時のクラスの担任の先生。ハズレ。)
「それとも…□□先生かな?」(←うちの学校に教育視察に来た先生。これまたハズレ。)

とりあえず中身を読んでみなよ、ということに。
で、最後まで読んで、やーっとのことで母が「先生」の正体だと気がついた。
だって…昨日は先生やったやん(笑)

母「残念だったね〜、つまんないね〜(爆笑)」
こ(複雑な心境で苦笑い)
母「日本の先生からお便りがほしかったら、まず自分が書かなきゃ、ね。」

誰だろ、どの先生だろ…☆とワクワクしてたこまめの期待を見事に粉砕しちまって、
申し訳なかったね、スンマセンなあ。 

2015年4月4日土曜日

キツツキの長い舌/キツツキになってみよう

国語の授業でもう1人の先生が取り上げた題材が「きつつきの商売」という物語だったので、
私の担当した副教科の時間ではキツツキについて別の角度から掘り下げてみることにした。

まずは動画鑑賞。
「ビデオ見たい人〜」と声をかけると、「ハイハイハイ!」とすごい勢いで集まってくる。
NHK教育のライブラリに非常に興味深いネタがあったので、それをみんなで観た。(2分半)



ひととおり感想を言い合った後、 「キツツキになってみよう」と題した穴あけ実習へ。
これまたとがっていたり刃のある工具を使うので、救急箱の存在を思い出させる。

用意した角材に、ねじ錐(キリ)を使って穴を開けてみる。



力を込めて、ねじ…ねじ…と交代で穿つこと5分ほど。深さ3cmほどの穴ができた。



次に、鑿(ノミ)と木槌でカンカンカン。


鋭い刃先と重い木槌の衝撃で、さっきよりは楽に彫り進む。



あれやこれややってみて、あの小さくて軽い鳥が、くちばしと首の動きだけで深い穴や
大きい穴を開けられるのがいかにすごいか、ということを体験的に学んだ。

とても印象に残ったのは、われもわれもと作業に取りかかった5人の子が、
「次は誰それね」「あ、〇〇、だめだよ、次は△△の番だよ」と、順番のルールを自然に
言い出して、彫る係・支える係が公平に回ってくるように自治的に解決していたこと。
こんなに成長していたんだな、と秘かに感動した。やってくれるぜ、3年生!

一本の鉛筆

学習グループの新年度。
3年生クラス5人を相手に、いざ、お手合わせ…!

朝の会は、10時5分から30分までの25分間。
用意した課題は、カッターナイフでの鉛筆削り実習。

ナイフより何より最初に、持ってきた救急箱を見せて、怪我の危険があることを周知。
くれぐれも安全第一、ふざけは厳禁。

さて、削り方。
まずは見本にやってみせ、どの手指をどう動かすか、解説。
それからやっと、待ってましたと作業開始。


やってみると、意外と難しい。難しいけど面白い。
無言で夢中になって、削れた削れた!



次に、自分で削った自分の鉛筆で、ノートに
 「これは、ぼくの/わたしのえんぴつです。
と書いてみよう、と促す。

ここで、鉛筆という漢字と、筆という字の成り立ちを紹介。


これも、面白がって聞いてくれた。
早速、さっき書いたひらがなのえんぴつを漢字の鉛筆に直す子、
漢字の成り立ちもいっしょに書き留めておく子、いろいろだ。


ここまでで、「一本の鉛筆」の授業はおしまい。

ねらい:
 ・自分の道具に愛着と責任をもち、モノを大切にする。
 ・自分や相手を傷つけることのないように細心の注意を払う。身体的にも、ひいては心理的にも。
 ・木の感触から、材料について実感し、モノのできる過程に興味を持つ。
 ・モノの名前や漢字の由来に興味を持つ。
 ・以上のことを、机上の空論ではなしに、五感の刺激を通し、実体験として心に刻む。


このように、日本語の技術にとらわれない、総合的な体験を重視した授業を、子ども達と
一緒に作っていきたいと考えている。
モットーは、「『知る』は楽しい」。
ひとりひとりの中に眠っている「気づきのタネ」をつっつくことができれば本望だ。
この年齢ならではの学び方楽しみ方を、存分に追究してみたい。

2015年3月21日土曜日

進級の季節

日本の年度末に合わせ、地元の学習グループの修了式があった。


(こまめよ、その態度は… (#^ω^)ピキピキ

修了証を神妙な面持ちで受け取るごまめ。


4月から年長さんになるごまめのクラスは、まあ楽しくやってくれれば内容は問わず!と
思っていたのだけれど、先生役のお母さんがとても真摯な方で、きめ細かく考えて丁寧な
授業をして下さった。ありがたいことだ。

次回から新1年生になるクラスの子達にとっては、この春は特に大きな節目。
これを機にやめてしまう子もいて、ちょっとしんみりもした。

2年生から3年生に上がるこまめのクラスは、いわゆる9歳の壁に直面する年齢の子達の
集まりで、生活や学習の習慣、興味の対象などの開きがこれまで以上に感じられるように
なってきた。
性格的な積極性の有無、その積極性を発揮する場面なんかにも個性が表れる。
子ども達本人の意欲のレベルとその表現方法のばらつきもさることながら、お母さん達の
考え方やり方も様々で、少人数ボランティア制の寺子屋に見出す目的も微妙に違う。
そこをうまくすりあわせて、仲間がいて一緒に学べることの喜びを共有できれば何より
なのだけれど、さて具体的に授業計画を練る段になるとこれがなかなか厄介だ。

何を目標に、どこに照準を合わせるか?
使うツールはどれが最適か?
結局、取捨選択の基準は教鞭を取る担当のお母さんの方針と能力に左右される。

2週に一度、土曜日の午前中2時間を使って授業するこのグループ。
どこのクラスもお母さんが2人一組で指導役になっていて、1人が主担任・もう1人が補助
という形が多い。
4月からこまめのクラスに参入することになった私は、安定してしっかり指導してくれる
主担任のお母さんに国語の時間(30分)と読み聞かせ(15分)をこれまで通りお任せしつつ、
授業前の朝の会(30分)と副教科(20分)を担当することになっている。
主担任の先生が教科書を使って基本に忠実な授業を展開するのと並んで、同じ題材をいかに
豊かに膨らませられるか、脱線という名の展開をワクワクしながら考案中なのだ。

補習校継続を断念した時にも痛感したことなのだが、自分という人間にとって、この、
遊び心というか、面白さをとことん突き詰めたいという欲求はかなり強く大切なようで、
技術や情報の伝達や解説にとどまらない「知る喜びを一緒に味わう」瞬間を、主体性の
ある形で子どもに伝えるということが、何よりの挑戦であり醍醐味だと思っている。

ぶっちゃけ、教科書をネタ本扱いしてどこまで脱線できるか、今から楽しみでしょうがない。

例えば、有名な金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」を2学期に扱う予定になっているが、
真っ当な吟味は主担任の先生にお任せするとして、自分がインスピレーションを得たのは
出だしの「私が両手を広げても お空はちっとも飛べないが」という部分。
そこで、鳥人間と飛行機という二つのソリューションを人間は作り上げた。
その話を紹介しつつ、手の延長・足の延長・目の延長などとして発明され洗練されてきた
デバイスにはどんなものがあるか、子ども達に考えてみてほしいと思っている。

あるいは、俳句を扱う授業では、これまた有名な「菜の花や 月は東に 日は西に」という句
から、菜の花の観察、あるいは、方角と天体の話なんかもできそうだなあ、と。

四角四面な教科書はちっとも好きではないのだが、題材の幅広さはぜひとも利用したい。
さてはて、5人の子ども達(男の子2人・女の子3人)がどこまで食い付いてくれるか?

2014年3月22日土曜日

これからもたのしく

隔週土曜日の学習グループ。
お習字の授業(2回目)があったのだが、


飛び入りでごまめもやらせてもらった。


めっちゃうれしそう。

これ↓は他の子が書いたものだけれど、このように先生の手直しが入る。



この日は年度末最終日。
授業の後、修了証の授与式があった。




修了証は各クラスごとに用意した。
上から「小1クラス」「年中クラス」「年少クラス」。




テンプレートは無料賞状サイトからダウンロード、文章の部分は手書き。

午後は、3クラス合同の打ち上げ。近くの室内遊戯場で大いに遊んだ。



こまめは年度途中に補習校からスイッチして、一学年下のこのグループに「転入」。
月一の読み聞かせサークルで既知の間柄ということもあり、暖かく迎え入れてもらえた。
学習にかかる負荷も前ほど大きくないので、ちょうど良いペースで続けられそう。
同年代の子ども達が程よい人数で集まれるというのはとても運の良いことだと思う。

元々お勉強大好きなごまめには、意欲に更にはずみのつくような仲間ができて良かった。
それもこれも、講師役のお母さんの入念な下準備や暖かく和やかな雰囲気作りあってこそ。
子ども達のみならず、母親陣にも個性的なタレントが集まっていて、これもご縁とかしか
言いようがない。ありがたいことだ。

長く養生していた自分も、徐々にローテーションに加わりつつある。
やっぱり「言われたからやる」のでなく「手探りで作り上げていく」方が、やりがいも
発見もいろいろある。今後がとても楽しみだ。

2014年1月24日金曜日

語彙なんて

こまめが使っていた幼児ドリルの残りが出てきたので、ごまめにお下がり。


いきもの博士」という絵合わせのようなもの。
こまめの時には、語彙を増やす助けになるかしら…とか期待しちゃっていたけど、
見たことも食べたこともない魚の名前とか、はっきり言ってSFの新生物とおんなじ。
そんなもん、身になりゃーせん。
今になってやっと、所詮はパズルと同種の暇つぶしだと捉えられるようになった。

どうせ死ぬまでの暇つぶしですよ。
by スマイル


元々1歳ぐらいからどちらかというとオランダ語の方が強めだったこまめだが、最近では
日本語の語彙が「今、自分が伝えたいこと」に追いついていない場面がちょいちょいある。
それでも「母とは日本語で話す」ということが染み付いているので、そこは頑固に貫いて
くれているが、あれもこれもうまく言えなくてもどかしく感じることは多いようだ。
8才ともなれば、日々得る知識も増え、段々と込み入ったことも考えられるようになる。
「年齢相応の言葉づかい」という目標の、なんと高くて遠いことよ!

逆に、オランダの「女子ことば」っていうのかな、ティーンの世界の話題なんかは
お母ちゃん完全にアウェイなので、平身低頭教えを請わねばならんかも…?
ま、暇つぶし程度にね。

2014年1月20日月曜日

ことばの教室

月に一度の読み聞かせ&遊びの会の活動内容を考えていて、連想ゲームをすることにした。
さよならさんかく またきてしかく』をメインに据えて、そこから遊びや工作に発展させる。

他にも関連した絵本はないかいな…と検索していたら、とあるページが目に留まった。
兵庫県のとある小学校の「ことばの教室」でのひとコマだそう。

©三木市立自由が丘小学校

気になったので、数年度にわたる取り組みの蓄積を拝見させてもらった。
(各年度のページ→「ことばの教室」タブ→各記事)

吃音児の支援をする専門家=校内ロゴペディスト(言語聴覚士)ならではの、「ことばに
親しむ工夫」が満載で、海外で日本語を習得しようとしている子ども達の指導にも参考に
なる点が非常に多いと感じた。

家庭やグループで、より魅力的な手作りの日本語学習の工夫を…と考えているそこのアナタ!
一見の価値大アリですよ〜。

2014年1月8日水曜日

漠然とした不安

暖かい季節に一時帰国できそうな見通しが立った。
1年半ぶりなので、家族皆ちょっぴり浮き足立っている。

日本ではほぼ平日なので、こまめに「またS小学校に行ってみる?」と聞いたら、
「えっ…」と微妙な表情になって、そのまま押し黙ってしまった。
お父ちゃんも横から「ありえない。バケーションなのに、毎朝早起きするなんてまっぴら」
とか言ってる。

………。

なんなんだ、この温度差は。
私にとって、そして親子にとっての日本語の大切さをあんなに力説しても、どこかでまだ
私のホビーとか思ってるんだ…。


こまめはこまめで、最近、伝えたい内容に表現力が追いつかなくなってきているのが顕著。
何やら言おうとしているがどうにも分かりにくい時、「それってどういうこと?」などと
聞こうものなら、プンスカ怒りだして「もういい!」って話すのをやめてしまう。
手持ちの語彙で「それはこれこれこういうことで…」って説明するでなし、オランダ語に
置き換えて話すでなし。スッと一筋縄で会話できない状況に腹を立てているのだろう。
かといって、どうにかできるようになりたいと模索するわけではない。

このままいったら、どうなっちゃうんだろう…?


一方のごまめは、なんでこんな子が私たちから生まれたのか??というくらい努力家で、
しかもその努力を苦労と思わないというか、自分の限界にチャレンジする気概があるタイプ。
(しかしながら、小食を克服するとか、そっち方面の努力はしないようです。笑)
自主的に勉強したりギモンを追求することがごく自然にできるっぽい。
言われなくてもやる、質問も飛び出す。それに応える形でいろいろ教えられるので、
はっきり言って教える側としても楽しい。

なんなんだ、この温度差は…。


向き不向きとか、興味の対象とか、母親との関係とか、いろんな理由がミックスされて
この状況なのだろうと思う。
算数とチェスの得意なこまめ。作文や書き取りにはやや苦手意識があるっぽい。
苦手なことを克服できれば理想的、でも同じ時間を得意なことを伸ばすように使うことも
できる。
「母のコトバ」に無理に縛りつけなくともよかろう、と思う自分と、せめて土壌を整えて
やりたい、と思う自分のせめぎ合い…。



クリスマスマーケットにて、お友達と一緒にマシュマロを焼くふたり。

2013年12月14日土曜日

伸び盛りと停滞期

最近のごまめ。いつの間にかひらがなが読めるようになっている。

私が長期間臥せっていたこともあり、文字学習にはほとんど手をかけていないのに、
トイレに貼っているひらがな表を見たりして覚えた様子。


何かの待ち時間に、こんな本でも渡しておけば絵でも見ててくれるかな〜と思ったら、
指で一文字ずつ追いながら、「あ」から順に延々と単語を読んでいく。
ひらがなドリルの類いも大好きで、勝手に出してきては勝手に取り組んでいる。
(マル付けぐらいはしておりますよ… ^^; )

そんなこんなの積み重ねで、絵本のタイトルや簡単な文章を読みこなすようになった。
日本のおばあちゃんや叔父さんから届くひらがなの手紙やメールも楽しみにしている。

一方のこまめは、少しでも言葉や文字に触れる機会を増やそうと、手を変え品を変え日々
せっせと注力していたというのに、いつしかそれが重荷になったり軋轢も増えたりして、
なんとなく興味が薄れつつある状況だ。

ふたりを見ていると、タイプによっていろんな吸収の仕方があるんだなーと思い知らされる。
こちらの浅薄な思惑などお構いなしってわけね…。

2013年6月29日土曜日

子のなかにひそむ天分

こまめの補習校通いは今学期限り、ということになった。

補習校での可能性、補習校以外での可能性、
現地校(モンテッソーリ小学校)の伸ばし方との兼ね合い、母子関係、などなど、
色々な側面から考慮した結果だ。



そもそも、家庭で楽しく始めた取り組みが、補習校という流れに乗ることでどう変わるか、

不安を抱えつつのスタートだった。
学校生活の楽しさはありつつも、お仕着せの(そして大量の)課題を負担に感じるこまめと、
ただただその課題を遂行させる係のようなものになり下がっていた自分に違和感も感じていた。
(お上に納める年貢米を取り立てるお代官様の気分というか…。ある意味、主体性がどこにも
なかったといえる)

現在の担任の先生のやり方には共感することが多いのだが、こまめの場合、個々の先生の

アプローチがどうこうではなく、「日本式の学校教育」という枠がもはや肌に合わないのだ
と結論づける他はない
スムーズにいくこともあるとはいえ、泣いたり怒ったりしていやがることが頻繁にあると
いうのは、やはり学習法が合っていないのだろう。
いやいやながら続けたところで、技術はそこそこ身に付くかもしれないが、気持ちのこもら
ない技術習得が果たして私たちの望むところか?というと、やはりそうではない。

日本にいてこのような学校が当たり前の環境だったら、適応するだけの力量はこまめには

あると思う。
ただ、今ここでベースとなっている学校生活が「自律・自立」をモットーに個々を伸ばす

ことに主眼をおいているので、文字しかり、文章の作法しかり、まず型を習得することに
多大な時間と労力をかける日本式とは相容れず、幼い心中に価値観の摩擦が生じ、折々に
炸裂してしまうのだと思われる。
どちらが正しいとかベターだとかいうことでなく、ただあまりにも相反するのだ。

ちなみに、モンテッソーリ式のやり方にはよく馴染んでいる様子で、縦割りクラス内での
緩やかな飛び級を示唆されたりもした。
母としてはせっかちに急ぐつもりは微塵もないが、ちょっと先に進んでみれば?というのが
可能な環境なのだ。
そのような特殊な小学校をあえて選んだのは、私の頭の片隅に日本式の学校教育に対する
疑問が多少なりともあったからではないか。
自分のような「指示待ち」「顔色伺い」「流され体質」にはなってほしくない、という希望も
あったのではないか。

「自分で選びとって築いてゆけるように」と願いつつ、その一方で「これこれのやり方を
なぞるように」とマニュアルからはみ出さない従順さを強要していたのでは、支離滅裂と
言われても仕方がない
相容れない世界観のいいとこ取りをしようとしてこまめを混乱に陥れていたのは、母である
私自身だったというわけ。

始めたことを途中で投げ出すようで、その点は気がひけるのだが、続けること(継続という
状態そのもの)に固執するあまり、こまめ本来の輝きを曇らせたり見失うことになっては
本末転倒だと思い至った。

たまたま手に取った、敬愛するおじいちゃん先生著書に、こうあった:


 「教育が、人間のなかにひそんでいる天分をみつけだし、そだてる事業であるとすれば、

  欠陥のある子ほど、教育者は熱意をもってむかわねばなりません。
  家庭教育の責任者である親は、その点では教育者の資格を十分そなえています。」
 

 「どんな子にも天分はあるのだ、それをみつけてやれないのは教育の力がたりないのだ」

こまめの天分ってなんだろう、と思いを巡らせた時、
それを開花させるのは補習校ではない
だろうし、このまま通い続けていたらしぼんでしまうようなものかもしれない…という結論に
至ったのだった。



来週が、最後の授業。
いろいろな世界があることを知ってもらう意味では、得難い体験だった。
2年間迷いながら通わせたことが、この先どう響いてくるかは、ずっと先にならないと
わからないだろう。
様々な状況の中、ずっと通い続ける人たちのことは、もちろん応援している。
また、色々な事情で通うことをやめてしまった人たち、
最初から通うという選択肢のなかった人たち
日本語を教えるということすらかなわぬ状況の人たち、
みんなみんな、それぞれの親と子のつながりが、健やかでありますように。
毛布のようにあたたかく、慈雨のようにうるおい、滋養に満ちたものの中で、子が育って
ゆけますように。
もし今がそうでないなら、そうなってゆきますように。

2013年5月22日水曜日

日本語を選ぶ理由

週末のあいだ、胃腸の調子が悪く、臥せっていた。
(暖かくなったりまた冷え込んだり、妙な気候ゆえ、皆さんもご自愛ください…)

朝食後のテーブルの上に、こまめの宿題の「今日やっておくべきもの」を用意し、
ごまめも何かやるかな〜?と幼児ドリルをいくつか広げておいた。

ベッドで横になっていたら、父と一緒に張り切って取り組んでいる様子が聞こえてきた。
父曰く、ごまめが数字をたどる線なぞりをやっていたんだけども、
最初 een, twee... と言いかけて、「あっ。いち、に、さん…」と言い直したそう。
にほんごのほうが、おかあさん よろこぶからね。オランダごだと、おかあさん 
よろこばないからね。」と、父にわけを話していたらしい。

いやいや、別にオランダ語を毛嫌いしてるわけじゃないよ!
オランダ語禁止とも思ってないし、むしろ私以外の人とは積極的にオランダ語で話して
語彙と世界を広げてほしいと願っている。

ただ、こまめの時から一貫しているのは、
「オランダ語はそのうちそこら中で目にする、耳にする。世界を形づくる言葉として
当たり前のものになっていく。だから、せっかく幼年期に入ったちょこっとの日本語が
消えてしまわないように、ゆっくりでも伸びて広がっていくように、母と子の間では
徹底して日本語で話そう」という態度。

知らない言葉も多いし、オランダ語の世界で体験したことはオランダ語で再現しやすい
から、日本語の文中にオランダ語の単語が混ざることも多々ある。
そんな時も「あのねー、今日schoolbiebでね…」「ああ、図書室ね」みたいにいちいち
言い換えているから、母が日本語を好むというかそっちを使いたいという意思表示は
そりゃ伝わってるに決まってるよな。

母の歓心を買おうとか、そこまでは計算してないだろうけれど、母の喜ぶこと(=やると
認めてもらえること)をちゃんと意識して選別しているんだとわかって、意外というか
当然というか、なんせビックリ。考えてみたこともなかった。

待てよ?
AかBかを選ぶ時、自分の快を選ぶよりも親の快を選ぶっていうこと?
いや、そういう顔色をうかがうような卑屈っぽい感じではないな。
どっちかっていうと、人の快=自分の快って感じ方をするタイプなのかも。
「喜んでもらう→うれしい!→じゃ、もっとやろう」のループっていうか。

ごまめは元々モラル意識の高い子で、やっていいこと悪いことを非常に気にする。
(しかし情熱派でもあるので、癇癪爆発の激昂時はこれを例外とする。笑)
だから、出しちゃいけないものを出したり(大事なものの引き出しとか戸棚とか)、
乗ったら危ないところに乗ったり、そういう挑戦的なことはほとんどしてこなかった。
周りの人の感情の変化にも敏感な方だと思う。
で、言葉の学習ひとつとっても、そういった側面がちゃんと出ているとわかって、
非常に興味深い。

…って、よくよく考えてみたら、親の価値観次第でこの人の人生めっちゃダイレクトに
左右しそう。責任重大じゃー!
進路とかに際して、あんまりこちらの好みをゴチャゴチャ言わない方がいいのかも…。


臥せっている間に、父&こまめごまめがクッキーなんて作っていた。
ポレンタの粉の残りを使ったらしく、レモン風味で、食感も香りもかなり私好み☆
胃腸の調子さえ良ければ、ガツガツいってただろうな…。

2013年4月22日月曜日

前途多難?!

補習校2年生になり、ボチボチ宿題が出始めた。
科目は相変わらず国語と算数。
国語は音読・書き取り・作文の3本立て。
漢字は「読 雪 言 南 春 今週」など、一気に画数が増えた。ヒー。
算数は「時刻と時間」のプリントだった。

相変わらず算数が好きなようで、ホイホイ取り組む。
一見むずかしそうな問題も、ちょっと解説を加えたら「あ!そういうことか」と、理屈で
納得して、解き進めることができる。

問題は、国語の課題。
読みは、感情をこめてそれっぽく読めるのだが、なんせ書くのが苦手。
理屈じゃないからね、書き取りや作文は…。
ほぼ毎回、泣くわ怒るわのヒステリー状態に陥る。
サポートする者としては、平常心を保つ訓練みたいな感じ。(ピキピキ…)
書けるようになりたいし、白紙で出すのもイヤだ、と言うからサポートしてるのに…。

例によって「できるようになりたいんだったら、練習するしかないんだよ」と諭すのだが、
今日はちょっと別の切り口で話ができた。
算数の難しめの問題を解き終え、達成感にひたっていた時。
「ほら、やったらできるやん!(と褒めまくる)
ちょっとがんばったらできる子なんよ、こまめは。
どんなにがんばってもできなかったら、それは仕方ない。そういうこともある。
でも、(やりたいのに)がんばるのがいやだって泣くのは、なんかちょっとズルくない?」
…と。そしたら、わかってくれたような様子。
(冷静な時は話が通じるんだけどね〜)

とことん苦手だとか、嫌悪感だとか、もうネガティブな気持ちしかなくって、放り出しても
良いと本人が思うんだったら、努力することを放棄してもやむを得ない、と思う。
細く長く楽しめる別のアプローチに切り替えるだけだ。
でも、本人ができるようになりたいと望むのなら、心を鬼にして「泣くのはやめなさい!
ハイ、練習続けて」と突き放すのもひとつの方法。

でも…、才能というかセンスみたいなのもあるしな…と、時々思う。
たいして努力しなくても、耳からスイスイ入ってくる子や、見た字を楽々覚えられる子、
思ったことをスラスラ書ける子もいるだろう。
そんな高みを目指さずとも、「楽しめる範囲でホドホドに…」という親心もないではない。
が、楽器の習得しかり、ある程度かじりつくことで越えられる壁もある。
その「ある程度」が「どの程度」なのか、見極めるのは至難の業だなあ。
特に、こう頻繁にヒステリー起こされるとね…。


こまめのつぼみが花開くのは信じているけどね。
いくら水をやっても、開きたいと花自身が思わないと、咲かないよね。
まだまだ自覚のない花に水をやるのも親の役目か…。

2013年3月9日土曜日

補習校のこと

補習校では、日本式のスケジュールに合わせてあるので、そろそろ年度末。
来週、小6と中3の生徒さん達は卒業、それ以外の学年とプリクラス(半年間の幼年部)は
修了となる。
1年生を終えるこまめの次のステップが、この土壇場になってようやくハッキリした。

この半年ほど(いや、もっとか??)宿題がイヤでイヤでしょうがないこまめと、それを
なんとかなだめようとする母との衝突があまりにも頻繁で、日本語学習以前に母娘関係が
危機的な状況だった。
ここ数週間ようやく改善の兆しが見えてきたが、諸々の蓄積で、元々は協力的だった父の
堪忍袋の緒もたびたび切れ、補習校の印象がすっかり悪くなってしまった。
オランダ人から見たら尋常ではない量の宿題と、毎週末の拘束…。
それで、父の意見は「1年生が終わったら、補習校はおしまい!」と随分前から決まって
いた。
母の意見は「補習校だけが日本語学習の方法ではないし、そんなに苦痛ならやめてしまって
構わない。他の方法でやったって良いさ。」
両親の言い分をきちんと伝え、こまめと何度も何度も何度も話し合った。
何度聞かれても、こまめは「学校には行きたい」と言う。
そういうことなら、宿題もある程度はがんばらないとね…と諭し、その時は納得するのだ
けれど、実際宿題をやる段になると、結局はイライラドカーン…の繰り返し。
正直、こっちもたいがい疲れてきた。

こまめ的に、何がそんなにイヤなのか?というと…
まず、現地校では宿題と無縁なので、宿題なんてバカバカしい、と思っている。
それから、書きまちがえたり、習ったのに忘れてしまうことが許せないらしく、怒れるやら
泣けるやら、えらく感情的になってしまうらしい。
一発で覚えられるわけないのに、ちょっと完璧主義なところがあるんだろう。
(これに関しては、間違えることは悪いことではないこと、誰だって間違えること、次に
間違えないようにこそ繰り返し練習するのだ、と説いてある)

だったらやめてしまえー!となるのだが、どっこい、学校は好きなんだそうだ。
補習校で、みんな一緒に勉強=全員で同じ時に同じ苦行(笑)にいそしむことや、友達と
遊んだりお弁当を食べたりすることは楽しい、と。

結局、父の意見とこまめの希望の折衷案で、2年生の1学期いっぱいを区切りとし、それ
まで通わせてもらう、ということで落ち着いた。
そうすると、プリクラスから合計2年間通ったことになるし、2年生になれたという実感
もあり、6月の運動会を今のお友達と一緒に体験でき、良い思い出になる。
で、夏休み明けのオランダの新年度からは、父の言うようにまた別の習い事にトライして
みるなり、新しい生活パターンを探っていくこともできるだろう、と…。

こまめのキャパ、父の思う「家族の日々」、時間的経済的負担…。
いろんな条件を考慮して、このような選択になった。

母である私が折衷の中間点のようなポジションにいるのは、どこまで日本語を頑張るか、
どの程度できてほしいのか、到達目標を見失っているからなのかもしれない。

2012年11月30日金曜日

書くこと

このところごまめのこと続きだったので、たまにはこまめのことも。

強烈な反抗期の兆候はナリをひそめてきたものの、やはりちょっとしたことでプンスカと
腹を立てたりして、「揺れるお年頃」なことには変わりなし。
特に、母と一緒に宿題をやるのに気乗りしないよう。
ま、気持ちはわからんでもないけどね…。
私も自分の母親に教えを請うのがなんだか屈辱的で、涙目だったし。(高校生の頃の話…)
「なんかムカつく」んでしょう、きっと。

で、勉強は父と一緒にやりたい、と言うので、漢字の練習や計算練習など私の口添えなし
でもできそうなものは、ごまめをお風呂に入れたり寝かしつけたりしている間に、やって
もらうことにした。
父も傍らでひらがなやカタカナの練習をしているそうで、なかなか和気あいあいとやって
いるらしい。親子でもなく、教師生徒でもなく、同志的なムードなのかも。
音読するのを聞いたり、文章を考えたりするのは私と一緒でないとできないので、そういう
のだけ手伝うようになった。

補習校に通い始めた頃からのジレンマはずっと続いている。
宿題の量とこまめのペースのバランスがカツカツなことから、宿題以外の「楽しいお勉強」
に時間を割くことがむずかしい、ということ。
学校で教わることが全てじゃないのに、優先的にこなさねばならない課題に押しつぶされて
しまっては、日本語の楽しさから遠ざかってしまうのでは…という懸念がずっとある。

今週の作文課題は、先週の行事(学習発表会での詩の群読)について書くというものだった。
「…こりゃ書きにくそうだな」と直観した。
「〇〇しました」「こう思いました」などのお定まりの形式を膨らませるには、本人の
感慨が少なすぎでは…と。
案の定、幾多の助け舟も甲斐なく撃沈。とうとう書くことを拒否するに至った。

そこで、ひと思案。
無理して書かせることはせず(無理なもんは無理!)、日を改めた上で「代わりにお手紙
でも書いてみる?」と提案してみたら…
「うん、やるやる!」と乗ってきた。
宛先は、体験入学でお世話になった小学校。


手紙らしい決まり文句、こまめのアイデア、いろいろ織り交ぜて一緒に文面を考えながら
書くのは、私も楽しかった。
漢字やカタカナも含め、これだけ「書ける」ということがわかったのは、大きな収穫。
達成感も味わえたのではないかと思う。

下書きの原稿用紙を宿題の「代打」として補習校に提出することにして、便箋に清書した
分は、こまめの写真&オランダのカレンダーと一緒に送る予定。


書くことの勉強をしているのは何のためなのか、自分たちにとっての本質を見極めないと、
こまめも私も息が詰まってしまう。
何かの感想文が上手に書けずとも、誰かへの思いを形にして伝えることができたら、それは
ひとつの大きな実りではないか?