2013年6月30日日曜日

うしろを向いたり 前を見たり

こまめが日本語の勉強(補習校の宿題)をいやがるようになったのは、日本式の学習法が
合わないからだろう、と書いた。
でも、そこには別の問題もひそんでいると考えている。

「これをやることに決まってるんだから、ちゃっちゃとやりなさい」と、こまめの興味も
ペースもその日の気分や体調もそっちのけで押し付けてくる(…ようにこまめの目には
映っていただろう)母の姿は、決してうれしいものではなかっただろう。
極力穏やかになだめたり、冷たく突き放したり、あの手この手で衝突を回避しようとする
ものの、堪忍袋の緒が切れて声を荒げてしまう…ということもちょいちょいあった。

はじめは、自分によく似た子だからこんなにぶつかるのかな?と思っていた。
(ごまめとは衝突しないので)
もちろんそれにも一理あるだろう、でも、どうもそれだけではなさそう。

ふと、自分の発する言葉の端々に、思い出したくもない過去、自分の育った環境のことが
蘇って、不安になった。
あの冷たい視線、自分を責める視線。怒りでいっぱいの、見開いた目。
自分も、あの母と同じようにしてしまっているのではないか…?

子育てをしていて、「ああ、母も当時はこんな気持ちだったのかなあ」と、自分と母を
重ねて見ることはこれまでもあった。
赤ちゃんのこまめを抱いている時、ごまめの無邪気さに目を細める時…。
もちろん、いい時ばかりじゃなく、困ったなあと手こずる時にも。

そうやって想像していて、うっすらと、徐々に分かってきたことがある。
自分は、かなり、放ったらかしにされていたのだな、ということ。
あれは、放任主義という名の放置だったのでは…?

何かを一緒にしたり、褒められたりした記憶がない。
抱かれたり、撫でられたり、手をつながれたりした記憶もない。
今日にいたるまでの無関心を証明するようなことばかりがポロポロと思い出される。

自分の数々の欠点のすべてを親のせい・家庭環境のせいにはできないとは思うけれど、
このなんともいえない「生きにくい感じ」の根源のひとつではあると思う。
家に寄り付かなかった父と病的に不安定な母とのコンボで、自信を持って歪まず健全に
育てという方がムリってもんだ。
それでも今まで、まっとうな社会人とは程遠いかもしれないが、何とかやってこられた。
自身にあの冷たい毒の連鎖の前兆を見るまでは。

ただ、救いは、こまめは私とはちがうということ。当たり前だが。
自分の思い通りにいかないと非常に不機嫌になり子どもに当たり散らす母のもとで
機嫌をうかがい、家庭ではひっそりと且つ勝手に生きることを覚えた私とちがって、
不満→爆発というわかりやすいサインを、比較的早い時期に出してくれている。
これを見逃してどうする。


…とまあ、そんなこんなも、こまめをいったん補習校とその課題・それに関わる母の姿
から切り離して、好きなこと・やってみたいことに熱中させた方が良いかも、と思った
きっかけ。

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