2013年7月6日土曜日

自分を育てる

最後の登校日ということで、やたら感傷的になっていた今日。


最後のお弁当は、おにぎりと、シソ入りつくね。


朝の全校集会で、校歌を歌うこまめを見た。私も大好きな、たんぽぽの歌。
顔を上げて大きな口を開けて、2番まできっちり歌いきった。
極度に恥ずかしがって皆の前で挨拶はできなかったけど、いっぱい学んで成長したって
ことは十分伝わってきた。
親が口うるさく言わなくても、残るものは残る。



朝礼の後、ウルウルしながらホールで感慨に浸っていたら、ある女の先生がこちらの方へ
近づいて来られた。こまめは一度も受け持ってもらったことのない先生。
ごまめが参観日の朝礼に混ざろうとした際に、「ごまめちゃん、どうぞどうぞ」と快く
列に招き入れてくださったことがあり、「やさしい先生だなー」と印象に残っていた。
今朝も、受け持ちの子どもたちの背中をさすってやったり肩にそっと手を置いたりして、
からだでも実感できるようなやり方で「そばにいる」「先生は、ちゃんと見ている」と
いうことをさりげなく伝える姿を見かけて、心を動かされたばかりだった。

その先生が、突然、「ごまめちゃんのお母さんですよね?」と。
なんと、お知り合いにここのことを聞いて、記事を読んで下さったらしい。
「お母さんのお気持ち、分かりますよ。」と言って、そっと抱いて下さった。
その瞬間、私の涙腺は決壊。何かがどっと解き放たれた気がした。
先生も目に涙をためていらした。

二言三言、どんな言葉を交わしたか、ハッキリは覚えていない。
ほんのわずかな時間(実際、1分もなかったんじゃないかな??)のことだったけれど、
でも、本当の意味で受け止めてもらえたと確信するには十分な時間だった。

私が一番欲しかったもの、
今までもらったことのなかったものを、
一番欲しい時に、ちゃんともらえた。

それまで言葉も目線も交わしたことすらないひとから、突然与えられた、受容の実感。
どんな本より、どんな正論より、何よりも心の核(さね)に直に届いた。
受け入れられ、認められ、慰められるって、こんな感じだったんだ!
まるで雷に打たれたようだった。
友達や恋人やパートナーのくれるものと、全然ちがう。
私はこれが、欲しかったんだ。
本当は、自分の、親から。

この感じ、この包容を、こまめにも与えられるようにならないといけない。

この気付きに至るために補習校に通っていたのか。
そう思ってしまうほど、カチリとはまった最後のピースだった。



「育児は育自」という言葉がある。
誰だって、最初は初心者。母親として、子どもと一緒に成長してけばいいんだよ…という
捉え方で、赤ちゃんとの暮らしが始まったばかりの頃から、なんとなく心の片隅に置いて
きた考え方だった。

今になって、ふと思い至った。
自分の場合、言葉通りの「育自」をしたらいいんだな…と。
つまり、子育てしながら、子ども時代に子どもとして生きられなかった自分を、
もう一度育て直せばいいんだ。
誰かを親代わりにするのでも、我が子を自分の身代わりとして育てるのでもなくて、
子どもの頃の自分に欠けていたものを、必要だったのに与えられなかったものを、
自分の手で埋めて行く作業なんだな、ということが、やっとやっと、やっとわかった。


N先生、こんなにも大切な気付きを、ありがとうございました。
自分を変える必要はない(というか、ちがう自分になんかなれやしない)けれど、
自分の軌跡はこれで変えられるかもしれない、と、少し希望が持てました。



車の中で、偶然かかっていた曲。
♪ サヨナラから はじまることが たくさん あるんだよ…


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