2012年2月26日日曜日

書く ~文字から言葉へ、そして文章へ~

学校からもらってきた「おたより」に、宿題に取り組む5~6歳児の支え方のアドバイス
(先生から親への知恵のおすそ分け、特に書き取り練習に際して)が書かれてあった。

*子ども自身、できれば(点線や補助線なしで)自力で書き上げたいと思っている

*字を書くことをどうでもいいとは思っておらず、できれば上手に書きたいと思っている

*いずれは(点線や補助線なしで)自力で書くようになる

*日本語を書くことが毎日行われるわけではない中、その最初のステップにおいて「お手本
 をなぞる」のは、子どもが書き慣れる段階において、あって良い過程である
 →ゆえに、徹頭徹尾自力のみ…でなくても良い

*どの程度の支援が必要かは子どもによって異なるが、困った時に助けの手が差し伸べられる
 という安全弁を持っていることは大切である


こまめにもよく当てはまることなので、フムフムと納得して読んだ。
上手に書きたいのに書けなくて、がんばってみるものの自分ではバランスを修正できなくて、
憤慨…ということがよくあるのだ。
うちの場合、ちゅうちょなく赤鉛筆で修正を入れ、それをなぞることで感覚をつかませて、
それから「赤」なしで書けるようにもうちょい練習…という感じでやっている。
まあこれは私個人の書道教室での経験をそのまま繰り返しているだけなので、是非のほどは
わからないが、助け舟を一切出さないお家もわりにあるらしい。

書道教室でもモンテッソーリでもそうだが、「提示(やってみせる)」をじっくり観察させ
れば、自力でやってみる際にずいぶんヒントになると思っている。
料理の手順がレシピではよくわからなかったのに、動画で見ると一瞬で納得…みたいなもん。
「これから自分でやるのだ!」という気概で見ていれば、得るものは必ずあるはず。
だから、あらかじめ書かれた点線なり補助線なりをなぞるのと、その場で書かれた「赤」を
なぞるのとでは、その意味がまったくちがう。後者のライブ感にまさるお手本はない。
文字は単なる線ではなく、緩急の流れのある水とか、余白をはらんだ雲のようなものだから。


「安全弁」についての最後の一文は、宿題のサポートに限らず、生活のあらゆる場面で言える
ことだろう。
身の回りのことは何でも自分でできるように…との思いから、ついつい突き放してしまいがち
なのだが、助けを必要とするサインに気づくゆとりぐらいは持っていなくては…と考え直した。



さて、こちらは、昨日提出したこまめの一週間分の三行日記。

こうして日記形式で書いてみて、改めて気づいたこと:

●主語をはぶかない
 「わたしは○○した」「わたしは××へいった」など、やたら自分を主語とした文を書こうと
 するのは、きっとオランダ語の影響だろう。
 日本語だと、日記で何かをしたのは自分という前提だから、省いてもちっとも変じゃない。
 でも、それを変じゃない、むしろ毎日の記録にいちいち「わたしは…」と出てくると過剰に
 感じてしまうのは、自分が日本人だからだろうなあ。
 
●助詞がややこしい
 「わたし」「きょう」「どこそこ」「どこそこ」などなど、これも普段の会話では
 省く方が当たり前になっている助詞の数々。
 こういうのをちゃんと意識して練習すれば、「文章書ける」ようになるんだろうなあ。

●いつの間にやらけっこう書ける
 たまに「えっと…、これってどういう字だっけ…」とあやふやになることはあったが、概ね
 すらすらと書けていた。
 一字一字、留めハネやバランスに気を配りながら練習するのと、細部を意識せずに流れる
 ように書けるようになるのの橋渡し中。
 読みでも経験したが、点が線になるこのひとまたぎはスゴいと思う。
 

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