2011年9月13日火曜日

てくてく歩きとタクシー

補習校に通い始めて以来、学校から出される宿題に取り組んでいる。
1週目は、運筆練習のみで、楽勝。
2週目は、名前の練習と、ひらがな2文字分の言葉集め、会話練習。
3週目は、名前の練習、ひらがな2文字の書き取り練習各2枚、別の2文字の言葉集め、
そして会話練習…と、だんだん増えて来た。これに加えて、読書(読み聞かせでも音読でも)
がある。

1枚1枚の量はたいしたことないので、毎日少しずつやっていれば必ず終わる。
しかし、1〜2日でまとめてやってしまうには量が多すぎるので、どのみちちょっとずつやる
ことになる。個人的にも、1日で全部やってしまって後の日は遊び倒すよりも、日々の習慣と
してコツコツやる方が、新しく習うこともより定着しそうに思う。

そうなってくると、悩ましいのが、家庭で独自にやってきた種々の取り組みとの兼ね合い。
最終目標を「日本語習得」に絞るのなら、補習校の用意してくれるものをひたすらこなすこと
で十分な気もする。…が、それではなんだか物足りない気がするのだ。

これまでに家庭でやってきたようなこと、例えば:
俳句を通して季節感を知ること、
カルタ、童謡、遊び、その他さまざまな切り口から言葉と文化の両方に触れて行くこと、
科学的・算数的なアプローチ、
工作や裁縫・料理など手を使って学ぶこと、
…などなど、一緒にやってみたいことがまだまだいろいろとあるのに、宿題に時間を取られて
しまって、雑多なことに挑戦しにくくなってしまった。

これは、補習校に行かせる前、入学を検討していた時から懸念していたこと。
学校中心の生活になるということは、学校以外のことがあまりできなくなるということ。

学校という集団生活の中、先生や友達のいる環境で得られるものは、家庭で与えられるものと
はまったく別のものだ。
それなりに高い学費を払って、用意してもらったカリキュラムに沿った課題をこなしながら
学習していくのは、タクシーで移動するようなものだと思う。
与えられた宿題をきちんとこなしていたら、ある程度の目的地には到達できるにちがいない。

これまでは、散歩のような学習だった。
親が素人なりの知恵をしぼって考えた行き当たりばったりのカリキュラム、手作りの教材。
そんなてくてく歩くようなペースの学習にはしかし、道草の楽しみがあった。
ひとつのトピックからどんどん話を広げて行くこともできたし、今日はお休みしちゃっても
いいか…と肩の力の抜ける日もあった。

今後はそのようなのんびりペースではやっていけないだろう。
まずは出された課題をきちんとやれるように指導することが、親の使命となった。
その上で、学ぶ楽しみを分かち合えるような、家でしかできないようなことも時々は織り交ぜ
たいものだと思う。どこまでできるかな?

幸い現地校の宿題はないので、補習校の宿題をこなすペースが上がって来たらもうちょっと
楽しげなこともいろいろと…と思いつつ、こちらの思惑など露知らず、勝手に友達と遊ぶ約束
を取り付けてくることも多くなってきた。
ヤレヤレ、こうやって飛ぶように小学生時代が過ぎるのだろうなあ。

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