2011年2月3日木曜日

言葉だけでなく

現在、こまめがひらがなを読めるようになるように…と、あれやこれや手を替え品を替え、母子で
取り組んでいるわけだが、ひらがなさえ読めれば良い、ひいては本さえ読めればいいと思っている
わけでは決してない。

言語はツールであって目的ではないという意見に私もまったく賛成で、その言葉の向こう側に
ある何を求めているのかということこそが大事であり、見失ってはいけないことである。
バイリンガルとして二つの言語を操れるようになるだけでなく、バイカルチャルとして二つの
文化を理解体得し行き来することができれば、それはとても豊かで素晴らしいことだと思う。
それこそが二つの異なる文化的背景を持つ父母の元に生まれた子どもの恵まれている点である。

そのために、厚みある文化という大きな山を眺めるだけでなく、気が向いたら自力で分け入って
行けるよう、麓の道筋をつけておいてやろうというのが親である私の目論みである。
勿論、それは遥か彼方を望んだ理想であり、途中でどうなってしまうかは誰にもわからない。
仮に道半ばで引き返すことになったとしても(つまり、日本語の習得をあきらめて現地語に絞ると
いう選択肢を選ぶとしても)、出発する時に掲げる目標は高くていいと思う。

文化と言ってもいろいろである。
茶道や華道、仏教や神道、武道に書道などといった伝統的なものから、マンガや遊び、最新の
デザインや流行に至るまで、切り口は様々。
食文化などは、時間軸・空間軸、どの切り口でも面白いと思う。
これらのひとつひとつに、変化に富んだ地形と四季、それに歴史が影響している。
例えば、おいしい和菓子やお好み焼きを味わったり、おばあちゃんの携帯電話に敬語でメールを
送ってみたり。そういったことの向こう側には膨大な文化の蓄積が横たわっている。

その海にどこまで漕ぎ出して行くか、それはこまめ次第。
最初は手取り足取り浮き輪も使って一緒に泳ぐことから…それが幼児期の会話の段階である。
ひたすら日本語でしゃべるという地道な努力の甲斐あって、ある程度スイスイ泳げるように
なってきたようだ。

更にもっと遠くまで行こうと思ったら、書き言葉という船に乗らないといけない。
日常会話以上のレベルである文化を理解しようとしたら、やはり話し言葉とはちがった書き言葉、
それも、より抽象度の高いものを理解する技術を習得しないことには始まらない。
日本語で書かれた物には古い物から新しい物まですばらしい蓄積があり、硬派な学術書から
マンガに至るまで幅広い。
なんとかその船を漕ぎ出そうと、えっちらおっちら櫂の持ち方から帆の張り方から練習中、
といったような具合である。
ひとたびエンジン付きの船に乗ってしまえば、あとはもう自由自在、好きな島々を巡ることが
できるわけなのだが、そこまで辿り着くのはいつになることやら。

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